野球の思い出(高校野球観戦編)
中学時代に球場でまともに高校野球の試合を観戦したのは確か2回だと思います。その2回ともが印象に残っています。
その1 怪物くん、死球に倒れる
栃木県民ならずとも50代以上の人なら野球を知らなくてもこの方は知っていらっしゃるのではないでしょうか。そう、作新学院の江川投手です。作新学院が昨年の夏の甲子園で優勝したのは記憶に新しいですが、30年以上前にも優勝を意識できるチームがあったんです。1年の夏からノーヒットノーランやら完全試合を連発してました。残念ながら甲子園に出たのは3年の春と夏。ともに優勝はなりませんでした。点をやらなくても負けはしませんが、点を取らないと勝てないのは当たり前ですね。
さて本題。江川投手が1年の秋の話。たまたま群馬県の桐生市の球場で秋の関東大会があったと記憶してます。足利のお隣の市なので多分父と行ったんだと思います。相手は群馬の前橋工業だったでしょうか。3塁側の外野寄りの内野席で見ていました。噂に違わずすごいピッチャーでその試合も1本もヒットを打たれてなかったように思います。5回だか6回に江川投手が打席に入り、運悪く頭部にデッドボールを受けてしまったんです。倒れてしまって微動だにせず、担架で運ばれたんでしょうね。よく覚えてないですけど。快投していたのでブルペンで誰も投げているはずもなく、慌てて2番手投手を準備したものの次の回だかに1点取られて負けてしまいました。江川投手の容体が気にかかりましたが、その後のことを見ると大事には至らなかったようです。でも、かなりトラウマになっていたようで、そのことがあって自分が投げる時も内角は殆ど投げずに外角で勝負していたと新聞か雑誌で読んだことがあります。頭ですからね。死にも直結しますし、死なないまでも何らかの障害が残る可能性もありますから。名球会なるものがありますけど、江川投手の場合は130勝くらいしかしてないのでそれに入る資格はまったくありません。でも記憶に残る投手で不世出の人であることに間違いありません。どうでもいいことですが、高校時代、江川投手とバッテリーを組んでいたO捕手は国会議員になってます。名前がOではなくなっているので分からないかもしれません。選挙区も栃木県ではないですしね。どうでもいいことでした。
その2 終戦記念日の黙祷の明暗
(中学編)でのジャンケン負けからそれほど経っていない45年前の8月。地元の高校(自分の進んだ高校ではありません)が甲子園に何年振りかに出場することになり、たまたまお盆休みだった父親と甲子園に臨時の夜行列車で応援に行きました。15日の終戦記念日です。相手は沖縄のN高校。この後何年かすると沖縄は豊見城高校などの強豪校を出すようになりますが、当時はまだそれほど強くもなく、沖縄の高校が甲子園に出て来ると球場全体が声援を送るような雰囲気がありました。この時も同様で球場の9割5分いやそれ以上ですね。こちらの応援席以外はみんな沖縄の応援に回る感じの今でいう完全アウェー状態でした。そんな中、互角の試合を続けていて何とかこちらがリードして終盤を迎えたんです、多分。8月15日は終戦記念日で甲子園では12時になるとサイレンの合図とともに黙祷をするのが恒例になってました。ちょうど12時近くに沖縄のN高校の絶好のチャンスがやってきました。確か満塁かなんかになったと思います。こちらにしてみれば大ピンチ。ちょっとタイムなんかをとって流れを変えたいところですね。そんな時正午近くになり、一旦試合は中断され、甲子園球場全体で時報とともに黙祷です。30秒だか1分間の黙祷を終え、試合再開です。この黙祷の時間がどちらに味方したのか。押せ押せだったN高校の打者はあえなく凡退。好機を逃してしまい、結局沖縄のN高校は負けてしまったのです。まあちょっとしたことで勝利の女神は行く先を変えてしまいますから、黙祷のタイミングが押せ押せのN高校には悪かったんだろうなあとその時は思いました。翌日、家に戻って新聞を読むと黙祷の後に凡退した選手の話が載っていました。「黙祷を終えて、目を開けたらまぶしくて球が良く見えなくなってしまいました。」とそんなようなことが書かれていたように思います。(私の思い込みの可能性もあるかな。)15日は天気が良かったですからねえ。目がくらむのも仕方ないかもしれません。N高校には不運なタイミングでした。
勝ち負けってどんなことで転ぶか分かりませんね。別にその後の私の人生でなんの教訓にもなってませんが、翌日に新聞の記事を読まなかったらそれほど印象に残っていない出来事かも知れません。
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