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2017年7月

2017年7月19日 (水)

野球の思い出(高校野球観戦編)

中学時代に球場でまともに高校野球の試合を観戦したのは確か2回だと思います。その2回ともが印象に残っています。

その1 怪物くん、死球に倒れる

栃木県民ならずとも50代以上の人なら野球を知らなくてもこの方は知っていらっしゃるのではないでしょうか。そう、作新学院の江川投手です。作新学院が昨年の夏の甲子園で優勝したのは記憶に新しいですが、30年以上前にも優勝を意識できるチームがあったんです。1年の夏からノーヒットノーランやら完全試合を連発してました。残念ながら甲子園に出たのは3年の春と夏。ともに優勝はなりませんでした。点をやらなくても負けはしませんが、点を取らないと勝てないのは当たり前ですね。

さて本題。江川投手が1年の秋の話。たまたま群馬県の桐生市の球場で秋の関東大会があったと記憶してます。足利のお隣の市なので多分父と行ったんだと思います。相手は群馬の前橋工業だったでしょうか。3塁側の外野寄りの内野席で見ていました。噂に違わずすごいピッチャーでその試合も1本もヒットを打たれてなかったように思います。5回だか6回に江川投手が打席に入り、運悪く頭部にデッドボールを受けてしまったんです。倒れてしまって微動だにせず、担架で運ばれたんでしょうね。よく覚えてないですけど。快投していたのでブルペンで誰も投げているはずもなく、慌てて2番手投手を準備したものの次の回だかに1点取られて負けてしまいました。江川投手の容体が気にかかりましたが、その後のことを見ると大事には至らなかったようです。でも、かなりトラウマになっていたようで、そのことがあって自分が投げる時も内角は殆ど投げずに外角で勝負していたと新聞か雑誌で読んだことがあります。頭ですからね。死にも直結しますし、死なないまでも何らかの障害が残る可能性もありますから。名球会なるものがありますけど、江川投手の場合は130勝くらいしかしてないのでそれに入る資格はまったくありません。でも記憶に残る投手で不世出の人であることに間違いありません。どうでもいいことですが、高校時代、江川投手とバッテリーを組んでいたO捕手は国会議員になってます。名前がOではなくなっているので分からないかもしれません。選挙区も栃木県ではないですしね。どうでもいいことでした。

その2 終戦記念日の黙祷の明暗

(中学編)でのジャンケン負けからそれほど経っていない45年前の8月。地元の高校(自分の進んだ高校ではありません)が甲子園に何年振りかに出場することになり、たまたまお盆休みだった父親と甲子園に臨時の夜行列車で応援に行きました。15日の終戦記念日です。相手は沖縄のN高校。この後何年かすると沖縄は豊見城高校などの強豪校を出すようになりますが、当時はまだそれほど強くもなく、沖縄の高校が甲子園に出て来ると球場全体が声援を送るような雰囲気がありました。この時も同様で球場の9割5分いやそれ以上ですね。こちらの応援席以外はみんな沖縄の応援に回る感じの今でいう完全アウェー状態でした。そんな中、互角の試合を続けていて何とかこちらがリードして終盤を迎えたんです、多分。8月15日は終戦記念日で甲子園では12時になるとサイレンの合図とともに黙祷をするのが恒例になってました。ちょうど12時近くに沖縄のN高校の絶好のチャンスがやってきました。確か満塁かなんかになったと思います。こちらにしてみれば大ピンチ。ちょっとタイムなんかをとって流れを変えたいところですね。そんな時正午近くになり、一旦試合は中断され、甲子園球場全体で時報とともに黙祷です。30秒だか1分間の黙祷を終え、試合再開です。この黙祷の時間がどちらに味方したのか。押せ押せだったN高校の打者はあえなく凡退。好機を逃してしまい、結局沖縄のN高校は負けてしまったのです。まあちょっとしたことで勝利の女神は行く先を変えてしまいますから、黙祷のタイミングが押せ押せのN高校には悪かったんだろうなあとその時は思いました。翌日、家に戻って新聞を読むと黙祷の後に凡退した選手の話が載っていました。「黙祷を終えて、目を開けたらまぶしくて球が良く見えなくなってしまいました。」とそんなようなことが書かれていたように思います。(私の思い込みの可能性もあるかな。)15日は天気が良かったですからねえ。目がくらむのも仕方ないかもしれません。N高校には不運なタイミングでした。

勝ち負けってどんなことで転ぶか分かりませんね。別にその後の私の人生でなんの教訓にもなってませんが、翌日に新聞の記事を読まなかったらそれほど印象に残っていない出来事かも知れません。

2017年7月16日 (日)

野球の思い出(中学編)

先週の日曜日に女峰山からの下りで左足に痛みを覚え、アキレス腱が切れないか不安を抱えながら歩き通しました。その後14日の金曜日になっても少し痛みが残っている状態でしたので、野球の練習では無理しないようにと思っていたのですが、守る人がいなかったため遊撃手などをしてしまい、フライを追いかけて行った時につい走りその時にまた痛めたようで、それから痛みがだいぶ増してしまいました。これまでの経験からは肉離れまではなっていないように思いますが、しばらくは無理できない状態で山などもってのほかです。絶好の連休もやることがないので、今日床屋に行ったところ、高校野球の県予選をテレビでやっていました。髪を切ったりしてもらっている時に中学時代と高校時代の野球にまつわる出来事を思い出してました。
その1 サインはいらない?
もう45年以上前の出来事なので細かな状況は定かではないのですが、監督は野球が多分まったくの素人の某科(体育以外)の教師でした。一応それなりに盗塁、バント、スクイズのサインは出してたと思います。いわゆる複雑なブロックサインではなく、どこか1か所を触るだけの単純なものだったと思います。こちらのスクイズや盗塁などが相手チームにことごとく見破られ、幾度となくチャンスを逃していたんでしょうね。我々選手から監督に「先生、完全にサインが盗まれてますから、かえた方がいいんじゃないでしょうか。」と進言したところ、監督さんは驚くべき発言をしました。「見破られてたっていいんだ。かえない。」選手は「???」。私などは「先生、じゃあ口で言ってください。見なくて済みますから。」と言いそうになってしまいました。試合に勝ったか負けたかは覚えてないのですけど、この監督は頭が悪いと思ったのは覚えてます。そのあとしばらくしてどこかの校長になったと思うのですけどね。お勉強はできたようです。
その2 ジャンケンは強いほうがいい?
これは45年前の話ですが、よく覚えてます。相手チームはL中。1年間に都合4回の大会があったのですが私がいたQ中とこのL中が2回ずつ優勝してます。最後の大会でのお話。軟式野球は今でもそうだと思うのですが、レベルが高いとあまり点が入りません。数年前に全国高校軟式野球選手権大会で延長50回くらいの試合があったのをご記憶している方もいらっしゃるかもしれませんが、投手のレベルが高く、守備もそこそこだと点を取ることが難しいのです。(個人的な考え方かもしれませんので悪しからず。)中学最後の試合となった対L中戦も双方塁には出るものの決定打やタイムリーエラーなどが出ず、0対0のまま14回が終わってしまいました。当時の規定では14回を終わって決着のつかない場合はジャンケンで勝敗を決することになっていたんですね。まあ決まりだから仕方ないと思い、ホームベースを挟んでキャプテンから順番にじゃんけんをすることになりました。私は5番目で最初は自分の所で決着がつくとは思っていなかったのですが、何とキャプテンのOが負けてから4人続けて負け。「ひえー、マジかよ(多分当時はなかった表現?)」と思う間もなく、「ジャンケンポン!」「あちゃー、負けちゃったあ」と中学の野球は終わったのでした。今ならタイブレークでしょうね。当時でも再試合の地域もあったように思います。まあ後味はいいのか悪いのか。今でも覚えているのですからいい思い出なんでしょうね。

2017年7月12日 (水)

霧降から女峰山(今年もまた)(平成29年7月9日)

7月7日の夜の野球の練習が堪えました。8日には別の山を予定していたのですが、夜10時前に帰宅しネットで少し情報収集しているうちに疲れがどっと出てしまい、8日の山は止めにしました。8日になって夕方からまた明日どこに行こうかの算段。検討するのが遅すぎますが、性分ですから仕方ないです。結局昨年の同時期に歩いている霧降から女峰山に行くことにしました。昨年は登りで5時間越えとバテバテだったのは覚えてます。昨年の自分の記事をこれを書く前に読み返してみると、前夜の野球の後に歩いていたようで、7日の疲れ具合を見ると、もし8日に歩いていたとすれば同じ轍を踏んだことになったと思われますが、今回は1日の休養日を設けたために、炎天下にもかかわらず(登りの時だけ)昨年よりも疲れずに歩けました。霧降から女峰山は最初に歩いたのは10年以上前になります。当時はそれほどの人には会いませんでしたけど、今回は数えられないほどの人とすれ違ったり抜かれたり追い抜いたりしました。志津乗越に車が入って来れないようになっているため、女峰山へのメインルートが霧降ルートになってきているのでしょうかねえ。歩き始めは快晴だったのですが、山頂ではガスってきてしまい、帝釈山がやっと見えるだけ。雲間から太陽が顔を出すと痛いほどの日差しで消耗させてもらいました?また来年もかな。山頂での景色に期待です。

赤薙山(2010.3M)、女峰山(2483M)

6時を少し過ぎた所なのに第3駐車場も6,7割停められてました。支度している間にも沢山車がやってきます。皆さんお目当てはニッコウキスゲのようですね。昨年は階段登りで消耗してしまったので、今年はキスゲを見ながら寄り道して登ります。

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ニッコウキスゲの群生は見事ですが、個人的には無秩序に咲いているような大峠近辺のキスゲの方がいいような気がします。すみません。階段登りの後半は傾斜がきつくなりますが我慢して登りました。回転扉を過ぎて小丸山で休みます。とにかく暑いです。喉はカラカラ。ここまででもう水分を500mlほど消費しました。この日はゼリー状のものも併せて4.5L近く水分を背負ってきました。独標の先の水場もありますし、これだけあれば浴びるほど飲んでも大丈夫でしょう。汗だくにはなるでしょうけど。焼石金剛で少し休んでえっちらおっちらと赤薙山へ。新しい板に代わっていました。

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花の写真は今回はキスゲだけにしておきます。ここまでにあった花としては咲き残った(散りそびれた?)シロヤシオやレンゲツツジ。サラサドウダン、ベニサラサドウダンなどもありました。赤薙山山頂からは男体山も女峰山も見えてはいたんですけどね。

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奥社跡までは登り基調のアップダウンのある尾根歩き。奥社跡には歩き始めてから3時間はかかりませんでした。昨年よりは良さそうな感じ。水分の消費は既に2L近くに達してました。少し腹ごしらえをします。前後して歩く人たちとお話すると皆さん暑さに閉口しているものの女峰山まで行かれる予定で独標先の水場に期待しているとのこと。皆さん考えることは同じです。

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2209Pへの登りを過ぎれば独標まではほぼ平坦。独標では大勢が休んでいて、ここで引き返す人もだいぶいるようでしたが、こちらはここでは休憩せずに水場まで進みました。

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(帰りに撮影)

当てにしていた水はしっかりと出てました。水量が多くペットボトルもすぐに満たされました。

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(帰りに撮影)

ここでもまた腹ごしらえ。一度に食べれないので少しずつ。水はがぶ飲み。これだけ出ていればいくら飲んでも大丈夫。空いたペットボトルに水を入れて再出発。ここから少し登り。尾根が曲がり、南方向に進路を変えて少しいやらしい登り。その先でロープ場。別になくても登れます。

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昨年はここからも牛歩状態でしたが、今年はそれほど酷くはなく三角点標石を過ぎて山頂へ。5時間はかからなかったようです。何人か休んでました。生憎眺望は望めず。ここでも腹ごしらえ。小出しです。ここに来るまで花はいろいろ咲いてました。イワカガミ、ゴゼンタチバナ、シャクナゲ、ミツバオウレン、ミヤマダイコンソウ、アカモノ等々。

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景色も良くないし、うっかりすると天気も崩れてくるかもしれないので長居はせずに戻ります。少し下るうちに左のふくらはぎの下の方が痛くなってきました。アキレス腱を痛めると厄介だなあと思いながら下ります。どうにかこうにか赤薙山まで戻りここまで来ればひと安心。樹林帯を抜けるとヘリの音が聞こえます。どこかで遭難でもあったのでしょうか。ヘリが雲の中から見えます。

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少し下ると上に骨折した人がいたとのこと。そう言えば道端に足を伸ばして休んでいる人がいました。お仲間と休憩中かと思ってました。回転扉近くに下ると救助隊の方々がこれから登るところのようでした。無事に救助されたんでしょうね。階段を足早に下り、ごった返す中を戻りました。

昨年よりは時間はかからなかったようです。順調に行ってもこのルートでは8時間以上はかかりますね。年々登りは遅くなる気がしますが、下りはむしろ早くなってトータルの時間は昨年を除けばそれほど変わらないようです。やはり歩き始める前から疲れているようでは満足に歩けないことが分かりました。というよりそんな状態で歩くなということですね。今回猛暑の中で歩き通せたので、これからも何とか大丈夫そうです。ちなみに水分は4Lは軽く摂りました。

駐車場(42分)小丸山(1時間6分)赤薙山(45分)奥社跡(45分)水場(55分)女峰山(1時間30分)奥社跡(32分)赤薙山(1時間)駐車地

2017年7月 2日 (日)

強風のため峰の茶屋跡避難小屋で撤退(平成29年7月2日)

昨年の今頃熊見曽根でニョホウチドリなどを見たことを思い出して、今年まだ行っていない朝日岳と隠居倉に行こうと峠の茶屋の駐車場から歩きましたが、風があまりにも強く、避難小屋で1時間近く待機してましたが、結局そのまま戻りました。

歩き足りない感じがして北温泉から隠居倉まで行ってみようかと中の大倉尾根を進みましたが、疲れたのと天候もさらに悪化しそうなので赤面分岐で引き返しました。取りあえず無人のスキー場にある三角点は見てきました。

峰の茶屋跡の避難小屋の外で茨城の笠間から来られた方としばらくお話し、その後、中の大倉尾根の分岐で再びお会いし、赤面分岐までご一緒し色々お話させていただきました。軟弱野球親爺と違って、疲れた様子はなく赤面山に向かわれました。

中の大倉山(1417.1M)

強風のためか当初は駐車場もまばらな感じでしたが、戻ってくる時にはだいぶ埋まってました。峰の茶屋跡までで戻ってくる人もだいぶいたように思います。

第1部:峠の茶屋と峰の茶屋跡の間

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第2部:北温泉から赤面山分岐

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(風が幾分弱まったのかロープウェイが動いてました)

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(標高の表示は違うと思います)

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(ここまで)

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(?)

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(三角点標石と何故か石祠)

第1部 登り45分 下り30分

第2部 登り2時間10分 下り1時間40分

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